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展覧会・イベント

2011年7月4日(月)-8月6日(土)

※7月18日は特別開館(10:00-17:00)

大正の揺籃+モンパルナスの洗礼:甦る昭和彫刻の史実!

清水多嘉示資料展 第I期

諏訪からパリへ-清水多嘉示の形成期

美術館 終了

共同研究「清水多嘉示の美術教育」の全貌を2回にわたり展覧する。本展では、学生時代~滞仏期の作品や資料を展示する。

会期
2011年7月4日(月)-8月6日(土)

※7月18日は特別開館(10:00-17:00)

時間
10:00-18:00(土曜日と特別開館日:17:00閉館)
休館日

日曜日

入館料

無料

会場

武蔵野美術大学 図書館展示室

主催

武蔵野美術大学 美術館・図書館

共催

武蔵野美術大学 共同研究「清水多嘉示の美術教育について」

協力

岩崎恵子(清水多嘉示ご遺族)、青山敏子(清水多嘉示ご遺族)、篠崎未来(独立行政法人 国立文化財機構 東京文化財研究所 非常勤職員)

監修

黒川弘毅(武蔵野美術大学 彫刻学科 教授)

企画構成:
黒川弘毅(武蔵野美術大学 彫刻学科 教授)
井上由里(八ヶ岳美術館 研究員)

お問い合わせ

お問い合わせフォームからお送りいただくか、下記までお問い合わせください。

武蔵野美術大学 美術館・図書館
電話:042-342-6003
Eメール:m-l@musabi.ac.jp

武蔵野美術大学彫刻学科は、本学の前身である帝国美術学校設立の2年後の1931年に開設され、本年は創立80周年にあたります。この機会に、帝国美術学校設立に参画し、彫刻学科の柱として科長・主任を長く務めた清水多嘉示(1897~1981)が遺した貴重な資料の全貌を今年2期に分けて展覧いたします。

清水の資料のほとんどは初公開資料でした。それらは彼が育った大正期の「信州白樺派」の余韻が残る文化環境、1920年代における西欧体験と帰国後の着地、記念碑的彫刻への意志と戦時体制・敗戦での処身、「具象-抽象」問題と芸術における精神的・理念的なものの世俗化、などに関する彫刻家の現実を多角的・重層的に示しています。帰国後の清水の軌跡は、そのまま昭和彫刻の通史をなすものといえます。

これらの資料に対して、本学共同研究「清水多嘉示の美術教育について」で調査研究が行われ、本展はその成果を発表するものでもあります。成果の一部は、既に共同研究報告書『清水多嘉示 資料/論集Ⅰ』(平成21年10月 武蔵野美術大学彫刻学科研究室 発行)として公表されています。また本研究は、平成21年~22年に日韓両国で開催された本学80周年記念事業「権鎮圭展」(韓国国立現代美術館・東京国立近代美術館・武蔵野美術大学美術資料図書館共同開催)企画の基礎ともなりました。

今年開催される2回の展示は、大正から昭和という激動期に、一貫した理念のもとに誠実に生きた清水を、日本の近代彫刻史のなかで一時代を画した彫刻家として再評価する試みとなります。

最前列左が清水多喜示、その後は佐藤朝山、中央はブールデル
最前列左が清水多嘉示、その後ろは佐藤朝山、中央はブールデル、右端にジャコメッティー

見どころ

清水多嘉示について

清水多嘉示は、八ヶ岳南麓の原村で生まれました。幼少期より美術の才能に目覚め、旧制諏訪中学時代に画家を志しました。代用教員であった1919年から1923年の渡仏まで、中村彝の知遇を得て二科展に出品しました。パリ到着後「アルヴァール将軍騎馬像」に衝撃を受け、アントワーヌ・ブールデルに師事。すでにブールデルのもとで学んでいた保田龍門(1891-1965)、佐藤朝山(1888-1963)と同門となって、本格的に彫刻家を志します。彫刻に転向したのちも絵画制作を続け、滞仏時代はサロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ等に、そして帰国後は国画会に、彫刻と共に絵画を出品しています。1943年以後は、新文展彫刻部の審査委員となり、戦後は日展彫刻部の重鎮の一人として同展に彫刻を出品し続けました。

清水は、帰国翌年の1929年、本学の前身である帝国美術学校設立に参画しました。多摩帝国美術学校(現:多摩美術大学)と分裂した1935年以降は、彫刻科の柱として1969年まで科長・主任をつとめました。1931年の彫刻科開設以後も、武蔵野美術学校時代までは西洋画の指導を兼任しました。さらに退任後の3年間武蔵野美術学園の学園長をつとめた清水の勤務年数は、創立80年を越えた本学の歴史において実に二分の一を占め、彼が本学の創設以来果たした功績は大きいといえます。

1935年に彫刻科の科長に就任したのち、彼はブールデル直伝の彫刻理論と精神に基づく教育理念を彫刻科において確立しました。しかしこれにとどまらず、彫刻と油絵の両分野の教育において、「表面的な形式を追うにすぎない」官展アカデミズムに対向する正統かつ真正なるアカデミズムを打ち立てることを自らの使命としました。

清水は、本学で教鞭を取るかたわら、戦前は府立第一高等女学校(現:都立白鴎高校)と日本大学専門学部芸術科、戦後は早稲田大学理工学部建築科,自由学園で長期にわたり講師をつとめました。こうした教職歴からは、彼の美術教育への並々ならぬ情熱をみることができます。同様の熱意は、戦時における翼賛体制下での美術政策立案に一定の役割を果たしたことにもみて取れます。戦後は、ヴェネチアおよびパリ・ユネスコ本部で開催の「国際造型芸術連盟」の会議に日本代表そして執行委員として出席、ジュネーブの国際電気通信連盟から「国際彫刻コンクール」の審査委員を要請されています。こうした社会活動は、彼の芸術観において作品の制作活動と一体のものとなっていました。

これらのことからは、清水がブールデルから学んだ彫刻理念は、単に彫像の制作技術や立体の構成理論ではなく、彫刻家としての実践において歴史や社会にアクチュアルに関わるべきである、という考えであったことが伺われるでしょう。

出品作品

第1期では、大正から昭和初期までの資料を次の時代に分けて展示いたします

1. 諏訪時代:信州諏訪の風土の中で過ごした幼年期から、画家を志した旧制中学、二科会に絵画を出品した代用教員の時期
2. 滞仏時代:絵画を学ぶため1923年に渡仏し、アントワーヌブールデル(Antoine Bourdelle 1861-1929)に彫刻を学び、1928年に帰国。諏訪で「滞欧作品展」を開催し、結婚するまでの時期

これらの時代に、清水が美術家として自らを形成した過程を示す、以下の資料を出展いたします。

<スケッチ類、水彩画油彩画、石膏原型>
諏訪時代から滞仏時代の豊富な作品群は、清水が美術家彫刻家としてどのように形成されたか、パリで学んだものが何かを示すものです。
<書簡類>
中村彝(1887-1924)、平櫛田中(1872-1979)、石井鶴三(1887-1973)ら美術家との交流を示す書簡のほか、オシップザッキン(Ossip Zadkine 1890-1967)、藤田嗣治(1886-1968)らパリで出会った人々との書簡は、美術史の細部にある興味深いエピソードの数々を記録しています。
<写真資料>
清水自身による撮影写真、美術館あるいは旅行先で購入した写真や絵葉書類からは、美術作品ばかりでなく当時の都市や田園風景、風俗文化をうかがい知ることができます。
<美術を中心とした書籍類、新聞、商業ポスター、パンフレット>
清水がベルエポックのパリで持った諸々の関心の対象を示す資料として、大変興味深いものです。
<文展、帝展、二科会や院展のカラー版絵葉書類>
渡仏前に清水が蒐集していたこれらの資料は、現存しない出品作を見ることができ、大変貴重なものです。

今回の展示では、清水の、日本の大正期で培われた資質がフランスのエコールドパリに遭遇して高揚する様子が見てとれます。青春時代の清水に堆積した二つの地層に含まれる鉱物は、その後の重層から析出する結晶の基本構造を決定づけています。諏訪で抱いた「芸術の都」パリへの憧憬と彼の地で築いた成果、その二つの実像を克明に裏付けるこれらの資料は、アモルファスな昭和のプロローグといえるでしょう。

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